拝啓 漱石先生

宗教・心理・社会・思想・哲学・教育
著者大岡信

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スメルジャコフ [2009年04月17日(金)]

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本書に出会ったのは大きな収穫だった。
自分なりに、本書のエッセンスを抜き、まとめてみると、次のようになる。

漱石は思考を手段とし、
作った仮構の中の作中人物を描写していった。

自然主義作家たちは漱石の作風が気に入らず、
また漱石も、明治41年の「田山花袋君に答ふ」の中で、

「拵えた人間が活きているとしか思えなくなつて、拵えた脚色が自然としか思えぬならば、拵えた作者は一種のクリエイターである」と反論した。

ただ思考という物差しで、人の複雑さを測ることは難しく、
漱石の作中人物は肉化せず、現実性が薄いものとなっていた。

漱石の作風に変化し出したのは、胃潰瘍による吐血で死にかけた、いわゆる「伊豆の大疾患」の後だろう。

「彼岸過迄」「こころ」「行人」と、作風は、自身の生きる態度が反映され、「道草」は、すべてが自己の文学的投影であり、告白であった。最も自伝的な作品であるとされる。

また、以下の記述は、重要な文だと思った。内容はもちろん、ムダのない、名文だと思う。長いが抜粋させて頂こう。







その際、自伝の形をとって、それが現れたことは、かなり重要な意味を持つ。つまりこのことは、現実に方法に対すること、表現方法に関していうならば、フィクションをもって人生を描き出そうとすることによって現実を捉えきることはできない、と漱石が認めたことを意味するものだからであり、『こころ』までの実験的・研究的作品を彼が暗に否定したことを示すからである。
 ここに、日本の近代作家が置かれた宿命的な悪条件が露呈している。すなわち、彼らは自分の生きている世界を表現する場合に、それを西欧の近代作家のなしたごとくに方法的に見、表現することによってはそこに近づきえず、逆に精緻に組み立てられた方法を放棄したところでのみ、現実と切り結ぶことができたのである。このことは、西欧社会においては、現実は方法的に処理しうるし、そのようにしてのみ積極的に現実と切り結びうるという事情を一方で反映しているのに対し、日本では、現実は方法的に処理するものでなくして、方法的であればあるほど、たとえば『こころ』に端的に露呈したような、自我の袋小路をかけめぐるのみの、現実性を喪失した人間しか表現できないという事実を反映していることを示すものであろう。(P168)


[2012年10月08日(月)]

評価:

Holy shzinit, this is so cool thank you.


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すみません、取り乱しました。