評価:
オーウェルの「1984」を再読した。
救われない小説である。
とりわけ、そう思わせるのは、後半の洗脳の描写だろう。
先般読んだノンフィクション、
「ショック・ドクトリン」(ナオミ・クライン)さながらである。
主人公のウィンストンは、
ビックブラザー下の社会のメカニズムは理解できるが、
その理由が分からなかった。
党の幹部であるオブライエンが、
拘束されているウィンストンに語る。
ビックブラザーは、これまでの親子間、個人間の絆を断ち切って来た。
人は、ひとりでいる自由に耐えられない。
しかし、もし無条件に党に従服できれば、自分のアイデンティティを脱却できれば、
即ち自分が党になるまで党に没頭できれば、その人物は全能で不滅の存在となる。
このへんは、先般読んだヤマギシ会を連想させる。
また一方、権力側にとっては、
人を酔わせる権力の快感だけは常に存在する。本書に出てくる二重思考が読み取れる。
洗脳の部分さえなければ、救われる描写が、ふたつある。
ひとつは、主人公の母親の記憶。
「母は際立った女性ではなかったし、まして知的な女性でもなかった。しかし彼女には一種の気高さ、純粋さがあった。それはひとえに彼女が自ら用意した規範に従って行動したからだった。彼女の感情は彼女自身のものであり、外部からそれを変えることはできなかった。実を結ばない行動は、そのために無意味であるなどとは、夢にも思わなかっただろう。誰かを愛するなら、ひたすら愛するのであり、与えるものが他に何もないときでも、愛を与えるのだ」云々(P253)
もうひとつは、プロール(労働者)の描写。
「庭の女性はせっせと行きつ戻りつしながら、洗濯バサミを口にくわえたり口から取り出したり、そのたびに、歌をうたったり黙ったりして、おしめを物干に吊るしていく。おしめは次から次へ出てくるのだった。(中略)彼女特有の姿勢、太い腕が物干に伸び、臀部が雌馬のように力強く突き出ている、を見ているうちに、彼はこれまで気づかなかったが、彼女を美しいと感じた。五十歳の女性の肉体、出産のたびに途方もない大きさにまで膨張し、その次には、働きづめで硬化し節くれだった挙句、熟れすぎたカブのように肌理の荒くなった肉体が美しいはずなどないとない、彼はずっとそう思い込んでいた。しかし彼女は美しいのだ」(P337)
「パリ・ロンドン放浪記」でも感じられるが、オーウェルは、自然は良いものだと思っていたんじゃないか。そして自然は、底辺の生活を送っている人に備わっているという。。。
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